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株式会社嵯峨映画
SAGA EIGA CORP.
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エピソード
 嵯峨映画の生い立ちをつづります。   古市義人    平成17年2月
 記憶もあやふやになってきましたので 今の内に知っている範囲で書き残すことにします。

 私の父、古市良三(通称名:収)がこの会社の創立者です。
父は四国の高松市、母は丸亀市の出身です。
父は東京電機大学夜間部を卒業し電気工事の資格を持っていました。
 俳優、阪東妻三郎のスポンサーであった大分県出身の立花良介さん(そのころは財閥でした。) が撮影所を作るのに電気技術者が必要だとのことで遠縁にあたる、電気工をしていた父を京都に呼んだのです。 そして阪東妻三郎に嫁が必要とのことで父と一緒に育った静子さん(良三の父、古市粂太郎と静子の父、尚次郎が兄弟)が嫁ぐことになりました。
阪妻さんの出演ギャラは常にキャッシュで親父が運んだときはリヤカーにいっぱいになって運んだと言っていました。 親父の駈け出しの頃(私が生まれたとき) 住まいは現在の東映撮影所の前にあり その後JR嵯峨駅の裏に引っ越しました。 ここでは阪妻さんと家が隣同士(家の所有者は阪妻さん)となり田村三兄弟(本当は四兄弟)と共に私は育ちました。 東映撮影所も一時は阪妻プロダクションの所有物でしたし親父は電気の専門性を生かしコツコツと照明機材をためていたようです。  (アメリカとの合作映画“あんたはんの女王:阪妻出演、スタンバーグ監督”をしたときにアメリカからもってきた照明機材を 譲ってもらったことが親父の事業独立に大きく影響したようです。)  阪妻プロダクションの社長を兼ねながら 照明助手を派遣する仕事をし照明機材のレンタル屋を始めました。 阪妻さんが若くして(昭和28年52才)亡くなった後 父は現在の太秦に引っ越しして大映撮影所の照明の仕事をしました。
父が照明課長を辞めた後、課長になった人がその後に市会議員になった宮本栄八さんです。(今は息子が市会議員)   父は仕事を会社組織にして完全に独立会社にしましたが これは日本で一番古い映画照明の専門会社です。 一時は照明助手を90人あまり大映撮影所に派遣していたこともありました。何故「嵯峨映画」という名前にしたのか? それは親父に聞くのは忘れましたが多分 阪妻さんとの共同事業の中で制作会社を作るのも夢だったのかなあ、と推測しますが定かではありません。
その後、両親は極貧な状態で数々の苦労を重ねて 会社は現在に至ることができました。

板東妻三郎とスタッフ
阪妻さんの自宅内事務所にて。右後ろ端が父の古市良三です。

 そのあいだ 大きな事件は

  • 1961年頃神戸から仕事帰り 深夜の171号線、高槻を越えたあたりで当社トラックがセンターラインを越えてきた居眠りのダンプカーと正面衝突、乗車していた社員3人が即死しました。
  • 大阪万博の公式記録映画の照明を請け負う。(谷口千吉監督)
    この仕事の受注のための打ち合わせで多忙になった父が疲労のため死亡しました。その後母が社長になりました。 実質、後を次いだ私(23才)の初仕事が万博です。
    人、機材共に大量に必要となり 契約時に受け取った500万円の小切手には震える気持ちでした。 照明技師に山根秀一、サブには岡本健一さんをお願いした。
    チーフに当社TOPの荒井定衛、他スタッフ総動員 (吉村凉 中氏伊三郎 橋本数一 倉田有造 古川博久 吉村吉雄 藤山弘明 山野照雄 津田耕治 佐々木政弘 )でした。 新米の私に当社スタッフから「食事が出ない」とか映画界の古い慣習をたてにワガママを突きつけられて困りました。 TV局ができてからは当社もNHKの仕事を中心にTV局の仕事が増えていましたが このころ、新興の舞台照明の会社に仕事を奪われるようになり万博の頃はほぼTV局の仕事は全滅状態でした。
  • 万博の仕事が何とか無事に終わったあと 従業員が騒がしくなります。 労働組合を結成し、「社長交代、経営権を我らによこせ」と叫びます。 (実質社長、息子の私への反旗です。) 地労の斡旋を受け何回も裁判所に足を運び解決するまでに1年半かかりました。 労働争議解決の後 16人いてた社員の半分が退職しました。 後を継いだ社長(息子)への不信感、リーダシップ、徳の欠如を感じたことが彼らの動機となったものです。

この後、「サガレンタリースの歴史」 へにもつながった話しとなります。

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