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株式会社嵯峨映画
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エピソード
 この仕事に携わり20数年、今までは無我夢中、とにかく目前の仕事を精一杯やってきました。社屋が映画の町のど真ん中にあるおかげで、数多くの技術者の方々が出入りしてくださいます。居ながらにして、古き良き時代の映画界の話がナマで聞ける、そんな環境の中にズブの素人の私が座った訳です。
 ここで私が学んだこと、経験したことは至宝です。このページでは私が見聞きし印象に残っている方々とのエピソードを折に触れ書いて行きたいと思います。

 まずはじめは日本を代表する照明技師、岡本健一さんです。
 岡本健一さんは平成14年3月5日、享年87歳でお亡くなりになりました。黒澤明監督作品「羅生門」、溝口健二監督作品「雨月物語」など数々の日本映画の照明技師として活躍されました。
 岡本さんはとてもおしゃれな方でいつもベレー帽をかぶり、天気のいい日はご自宅から弊社までサイクリング、その格好もショートパンツにハイソックスという出で立ちです。コーヒーが大好で、映画の話を始めると目が輝いてました。
 二十数年位前のある日、私は一冊の本を、「これ読んでみィ−。」と渡されました。谷崎潤一郎の著書「陰翳礼賛」(インエイライサン)でした。「この本の中に書いてある言葉どおりの光を作りたいねん。昔の便所は足下に窓があってそっから光が差し込む。朝の光、昼の光、夜の豆電球の光、みんなライトで創れるんでー。時代劇は夜は蝋燭の光しかあらへん。蝋燭は揺れる。それもライトで創れる…。みんな撮影部がええと言うけど照明部の方がずっと面白い。手柄は撮影部やけどなァ」と止めどなく話されました。私はその夜、その本を読みました。二十数年前に読んだので、今となってはあまり記憶にはないのですが、日本家屋の陰について谷崎の格調高い品格ある文章で深く追求されていました。私は照明の技術的なことは全くわかりませんが、一人の人間として向きあった時、仕事へ傾ける情熱、姿勢は感じとることが出来ます。何とかして監督、カメラマンの要望に応えようとする気構え、気迫は作品に醸し出されるものだと思います。これからライトマンを目指される方、是非ご一読を。

 晩年になっても仕事に対する情熱は衰えず、「どんな仕事でもええんですわ、わてはずーとライト触ってたいねん、」と仰って、現場をこよなく愛した方でした。ご冥福をお祈り致します。

下村一夫さん
「下村一夫さんを偲んで」

 昨日(平成15年3月10日)朝8時ごろ、島根にロケハンに行っていた古川より私の家に電話があり、「しっかり聞いてください、下村さんが亡くなりました。いつ亡くなったかわからへんのです。お風呂の中でした。僕が引き揚げました。詳しいことは後で。」と言って電話が切れました。

 頭の中では目まぐるしく元気な頃の下村さんの笑顔と、お風呂の中でいったいどんな状態だったのかという思いが駆け巡り、自失茫然。こんな仕事をしていると何度か咄嗟の場面に出くわすのですが、いつも動転してしまい冷静さを失ってしまいます。

 私が最後にお目にかかったのは2月3日、岡崎宏三キャメラマンと今春撮影の映画「アイ・ラブ・ピース」(大澤 豊 監督作品)の打ち合わせのため、弊社を訪れて下さいました。私はノート片手に打ち合わせのメモを取ろうとしていたのですが、なかなか本題に入りません。旧き良き時代の映画の話をされ、本題はほんの数分で終わりました。お二人がコンビを組んで60年にも及ぶのですから日本映画界にとっては『生き字引』ともいえる存在です。「お互いのつれあいより永いコンビなんだよ、僕たちは、、、」岡崎さんと下村さんは夫唱婦随のような関係で「あ、うん」の呼吸だったろうと思います。

 私には大変優しい「おじいちゃん」のような方でした。(年齢的には親子ほどの差ですが)ある作品でプロデューサーが下村さんに「今回の作品の照明予算は***です。この範囲でお願いします。」と言ったのです。下村さんは早速わが社に来られ、「僕はね、今まで予算のことを言われたことがないんだ、今回はじめて聞いたけど、この予算でいけるの?僕わかんないんだ。もしいけなかったら言ってね、何ともしようがないけど、考えるからよろしくね。」と心配そうに、だけどあっけらかんにおっしゃいました。どんな作品でも予算という枠があります。今までその枠を心配せずに仕事できたというのですから大変幸運だったと思いますが、これはまわりの方々が下村さんだったからこそ、その枠に縛らなかったのではないか、と私なりに考えました。実際、その作品は予算内に収まりましたし、無理難題を言われたこともありません。下村さんならではの温和な人柄の良さが滲み出ている言葉でした。前回の作品「アイ・ラブ・フレンズ」を撮り終えたとき、「もうこれで最期にするからね、家内がもうやめてって言うんだよ。」と、でも帰り際には「また来るからよろしくね。」と元気に帰っていかれました。「下村さん、やめる、やめるゆうてまたしはるんやから。現場で死んでもええやん。」ほんまにそうなってしまいました。

 永年、日本映画テレビ照明協会の会長としてフリーの技術者を束ねてこられた業績、数々の日本映画の照明技師として活躍された業績はすばらしいものですが、それらのひとつひとつを当たり前のように飄々とこなしていたことが下村さんならではの人格のなせる業だったと思います。

 お酒が大好きで飲み始めるとピッチが早く、殆んどつまみを召し上がりません。はっきりと聞き取れない声で戦争に行ったときの話や、世界各国にロケに行ったときの話など目を爛々と輝かせてして下さいました。あの笑顔とかわいいちょび髭にもうお目にかかれません。享年82歳。ご冥福をお祈りいたします。

平成15年3月11日

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